従来のカバラと

われわれの立ち位置との相違

 

 

 従来のゴールデンドーン系カバラ(以下、「GD系カバラ」と表記する)には、われわれの立ち位置との根本的な相違がある。その内の最も大きな問題点の相違が、彼らの言う「神との合一」や「大いなる秘儀」について述べている点である。

 

 GD系カバラの基礎的な文献に当たる、ダイアン・フォーチュンの『神秘のカバラー』では、以下のように語られている;(ダイアン・フォーチュン著『神秘のカバラー』:国書刊行会)

 

(p.383:項目88)

 「高次の自我」と「低次の自我」とが、前者が後者を完全に吸収することによって一体となるとき、真の達人が誕生する。これが「大いなる秘儀」、「神との合一」なのである。それは受肉した魂の至高の体験であり、この体験が生じれば、肉の牢獄へ再び生まれようとするあらゆる衝動から解放される。そうなれば、諸次元を上昇し、安息へ入ることは自由であり、また、そう望むなら、大地の天球内に留まり、「師」として働くことも自由である。

 

 

 この語られていることでわたしが問題とするのは、前段で、「高次の自我」が「低次の自我」を完全に吸収すれば真の達人が誕生し、「神との合一」が起こる、というくだりである。

 

 

 この「自我」の認識では、現実の「高次の自我」と「低次の自我」とは同等に作用するか、あるいはわれわれが自分から意識して、高次自我を低次自我以上に強い力に自分の中で育て上げなければならない。そして、仮にそれができたとして、他の人々も同様に、高次自我が低次自我を吸収できるようにならなければならない。

 

 

 なぜなら、わたしの中で高次自我が低次自我を完全に吸収できたとして、社会全体の中では高次自我の作用よりも低次自我の力が大きいとするならば、わたしの単独の高次自我は社会全体の低次自我にはとうてい及びもつかず、低次自我に吸収されてしまうだろう。そして高次自我は消滅してしまう。

 

 

 また、仮に、社会全体では高次自我が強く、わたし自身と他のマイノリティだけの中で低次自我が強いか、高次自我と対等なだけであるならば、全体では高次自我の働きが強いので、落ちこぼれであるわたしはただ学校の勉強をもっと一生懸命に学ぶか、社会人であれば仕事を一生懸命行ったり、カルチャー教室や権威者の講演会に参加し、より社会に適合できるように努力しなければならない。

 

 

 もしそうなら、GD系カバラでの指摘では、カバラや秘教の学びと訓練は、最初から必要ないことになる。「わたし」とは、最初から必要のない存在になる。

 

 

 さらに重大な問題は、このGD系カバラの指摘では、「高次の自我」と「低次の自我」の相違は相対的であって、絶対的ではない。ここには、われわれの「秘儀参入のタロット」で指摘する「存在の変容」は起こりようがない。「高次の自我」と「低次の自我」とは相対的な関係であり、「低次の自我」は「高次の自我」に吸収され、それが「神との合一」だと述べられる。

 ここには、われわれの「秘儀参入のタロット」でいう、「#16. The Tower 稲妻の塔」の「絶対者の顕現」と、その前での「低次の自我」の「絶対的崩壊」とがない。「高次の自我」は「低次の自我」よりも強大なので、後者は前者にただ吸収されるのである。だとすれば、「高次の自我」への吸収は人間にとって「神との合一」ではなく、ただ宇宙人に吸収されてペット化されることと同一になるのではなかろうか。ここには別の世界、新たな世界創造は現れてはこない。

 

 

 われわれがベルジャーエフの『創造の意味』の中で取り上げてきたことは;

 

 人間精神は囚われの境遇にある。この囚われの状態を、わたしは「世界」、所与の世界、必然性と呼ぶ。「この世」は、コスモスではない。

 真の道は、「世界」からの解放の道、必然性による囚われの状態から人間精神を解き放つ道である。『ベルジャーエフ著作集 第4巻「創造の意味」』p.5:行路社)

 

 ということであった。

 

 

 “人間精神は囚われの境遇にある。「この世」は、コスモスではない。”、という体験と自覚である。すなわち、わたしの自覚では(*もはやわれわれではない。「わたし」である。わたしが変わらなければならないことを、迷うことなく自覚させられるほど、わたしが体験によってこの世の精神の仕組みに気づかされたのである)、この世は低次自我と高次自我の永遠の葛藤と混乱の場であり、どちらが勝つか負けるかではない。この精神的仕組みと影響力から、「分離」しなければならないことに目覚めたのである。

 

 

 高次自我でも低次自我でもない力、働きが、あるのかないのか、それを見出さなければならない。これが探求の、それゆえ秘儀参入への、出発点である。

 

 

 この高次自我と低次自我との葛藤の世界からの「分離」が、神の前に立つことによって可能なのである。つまり、「高次自我」でも「低次自我」でもない、「自我を離れて神の前に立つ」のである。高次自我でも低次自我でもなく、自己が自己を追求することをやめて、自己から抜け出し、自己ならざる神の前に立つのである。

 

 

 しかし、たとえ自己が自己ならざる神の前に立ったとしても、その自己が依然として古い自己、高次自我と低次自我が葛藤している自己、低次自我を吸収したという高次自我ならば、自己そのものは少しも変わってはいない。それが高次自我になっているとしても、その高次自我は社会の中では絶えず低次自我と葛藤している「古い自己」である。

 したがって、「神の前に立つ」自己は、もはや古い自己ではなく、古い自己に死んでいなければならない。神の前に立つ自己は、古い自己に死んだ「新しい自己」でなければならない。つまり「新生」である。

 

 

 「神との合一」、それゆえ神の前に立つ自己は、高次自我でも低次自我でもなく、その分裂や葛藤のない、「新しい存在」でなければならない。この「新しい存在」は、「社会全体の精神が囚われの境遇にある」としても、それとは完全に「分離」しており、その力に影響されることはないのである。それが、われわれのクリスチャン・カバラが見出している秘儀参入である。

 

 

 

 

*これは、GD系カバラに対する批判書ではありません。ネオ・プラトニズムの立場で教義を形成している従来のカバラに対し、わたしはそれとは異なる体験をもつものとして、「秘儀参入のタロット」の立場を明確にしているだけです。誤解のないようにお願いいたします。だから、わたしの確立したタロットも、「レオン•サリラによる秘儀参入のタロット」としています。自己宣伝の意味でのレオン•サリラではなく、わたしの全面的責任による秘儀参入の意味です。GD系カバラはGD系カバラとして、尊重しています。

 

 また、ここで取り上げている「トートタロット」も、フリーダ・ハリスとアレイスター・クロウリーによって製作されたものを使用しますが、そのタロットに対する考えも構造も、彼らとは違ったものとして捉えています。それがトートであり、タロットであるかぎり、それは彼らの個人的独占物ではありません。また、わたし個人の独占物にもなりません。彼らが描いたカードの絵以外は、個人的なものではありません。

 くれぐれも、誤解のないようにお願いいたします。

 

 

(画像制作者:摩風ゆみ/タロット王国)

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