聖杯探求とタロット

 

 

聖杯探求は魔術の力を引き出すための旅だが、

その場合の「魔術」とは、異世(アザーワールド)を創造する能力、

というほどの意味である。

 

 

 食べ物を食べれば、人は意識しなくても体内の奥深くで消化され、人は吸収して行きます。そして、食べ物は肉体や力へと転化されてゆきます。

同様に、人は起っていることを深く理解することによって、その人の生き方が自然に変容するのです。深く理解されれば、必要なことは自ずから起こります。

 そこに愛があれば、出会いは勝手に起ります。

 そこに世界(Wholeness)があれば、必要なことは自ずから起こります。自ら起らないことを、求めるべきではない。起らないことを追求すれば、生はただ混乱して行くだけなのです。

 

*(上図の)フールが左手に薔薇の花を持つのは、聖杯探求の始まりを意味します

 (「光の侍従会のタロット」より)

 

 それにしても、生きていることが空しいので、求めるものが自ずから生まれずに、人は別の何かを求めます。

 「聖杯探求」とは、出かければ探求できるというものでもありません。

 多くの人々は聖杯探求に失敗し、人生を失います。

 

 「トートタロット」では、探求の初めが既に「#11.The Lust 夜明けの女神」の聖杯探求に当たりますが、探求を始めると、探求者の心の中に巣食っている野獣たちが生き返ります。「心がでっち上げた野獣たち」ーーーそれは果てしない矛盾やもめごとを伴う、きれいな着物で覆われた「欲望という名の獣たち」です。ーーーーー(右下の図は、欲望という獣の上に乗る、「トートタロット」の「#11.Lust 夜明けの女神」のカード)

 

 

 人は人から重要扱いされたいのです。特別扱いされ、甘えて生きたいのです。楽をしたいのです。いい格好をしたいのです。ーーーその行き着く先は、無責任な世界の形成と孤立化、非生産的な人生なのです。

 

 その欲望の虚偽性をあいまいにしたまま通っては、聖杯探求者たちは聖杯にたどり着くことはできません。自分の欲望の全体像を、明らかにしなければなりません。ですから、聖杯の探求者たちは、一人ひとり暗い森の中へと旅立ちました。自分の本当の心という暗い森です。それから逃げずに向き合うのです。それが、未知の世界の中へ入っていくということになるのです。

 

 

 『聖杯』探求とは、完全に空っぽな心を見出すことです。完全な心、神聖な心、広大な心、全体的な心、心が雑物でいっぱいになっていない心です。だから、純真無垢なパーシヴァルという人物が、その到達者になれたのです。

 

 日常の単調な、醜い、取るに足りないことに関わっているわたしたちは、そのすべてを、どのようにして即座に変えられるでしょうか? 

 少しづつ、徐々に、段々というのがまやかしです。人はそういう考えを自分の中に持ち込むことによって、『現在』から逃避して生きます。

 

 聖杯の探求者パーシヴァルは、目の前に聖杯がやってきた時、それに聞き、それに尋ねようとせずに、母親の忠告や母親の言ったこと(つまり人の言ったことや一般的な情報、本に書いてあったことなどです)を思い出し、その言葉に従いました。彼はいま目の前で起っていることによって生きずに、記憶によって、知識によって生きようとしたのです。そのため、聖杯探求の初期の段階では、聖杯は彼の目の前を通り過ぎて行きます。

 

 聖杯の探求者がいよいよ聖杯の城へたどり着く手前で、パーシヴァルの妹ディンドレインは、不治の病におかされている婦人を救うために、自分の全身の血を差し出して死を迎えます。それはトート版タロットの、「#11.The Lust 夜明けの女神」のカードにある、欲望の獣の上に乗る女神の姿でもあるのです。右図のように、女神ヌイトは自分の全身の血を聖杯として、高々と天に差し出しています。

 

 「#21.The Universe 楽園回復」のサークルの最後になる「#18.The Moon 異世への門」を通過した探求の果てには、今度は聖杯の到達者として、また最初のサークルの守護人「#11.The Lust 夜明けの女神(実はディンドレイン)」が再び現われてきます。かくしてディンドレインも聖杯へ到達し、兄パーシヴァルは聖杯の守護人になりますが、このようにして2人は、2度と人生を雲や嵐で覆うことのない、新しい世界を開花させます。

 

 ディンドレインの肉体における死は、探求とは、肉体的、物質的欲望からの解放であることを、わたしたちの心に示してくれます。また、初期のパーシヴァルの後の聖杯の騎士ガラハッドは、聖杯を獲得すると7日後に死にます。これは、天地創造神話での第1期創造の7日間が終わり、現在の宇宙創造がその後の第2期に入っていくことを教えてくれています。

 

 これらの実際のことは、話を聞くことや本を読むこと、他人の講演に参加することによって起ることではなく、実践的な人生の生きる真実を探求することによって発見できるのです。

 

 左図のライダー版タロットの構図にある永遠を表す記号レミニスケートは、2つの輪の組み合わせででき上がっています。それは「選択のない世界」を表します。達成すること、目的を手に入れるという、〈空しさ〉から去る世界です。それは、対話と共生と絆を通して、無限へと開かれて行く徴しです。二元、対極、選択がないので、無限です。神話で言う、「境界越え」です。タロットの「#19.The Sun 太陽」は、この境界を越えて無限へと入って行くのです。だから、「#19.The Sun 太陽」も「#11.The Lust 夜明けの女神」も、みんな太陽なのです。

 

 人生に感動を求めない。感動は達成であり、何かを手に入れることだからです。それは、次には何ものでもなくなり、<空しく>なります。興味を失うか、感動の記憶が薄れるからです(*求めたわけではないのに、思いがけずにぶつかる感動は、これとは全然別な話です)。

 選択は必ず次の対極を生み出し、心の葛藤につながることを、全存在的に理解するなら、人は欲望から離れることができます。選択、欲望から去って行きます。

 そして、人は欲望によってではなく、「理解」によって生きるようになります。その理解は、理屈を理解するという意味の理解ではなく、物ごとを「洞察する」という意味での理解です。その理解があるとき、人には迷いと選択のない、直観的応答が生まれます。

 

 諸々の対極から自由であるとき、もはや人の行動は達成のためではなく、充実によって突き動かされるものとなります。行動は、計り知れない理解から生まれます。

 そのとき、行動は〈喜び〉から発生してきます。その〈喜び〉から生まれる行動には、選択がなく、迷いがなく、努力がないのです。迷いのない行動を直観と言い、それは霊感の最高形態です。

 

 タロットカードという気晴らし以上のもの、気慰め以上のものを見出せなければ、それはまだタロットではありません。

 「現在」とは、「時間の今」ということではなく、現在における行動の充実のことを言います。現在における行動の完全性が「不死」です。精神が「わたし」という葛藤、対極から全く自由になった調和的な行動を取るとき、それが「不死」です。「完全に生きる」ということを実現すること、それがスピリチュアルということなのです。

 

 生の空しさは何故生まれるのでしょうか。それは欲望によって行動するからです。行動の基が、欲望だからです。欲望は目的を設定します。だから、目的、理想の追求は逃避なのです。自分の欠乏、不満からの逃避です。

 では何故、欠乏があるのでしょう? 何故いま充実していないのでしょう? それは、自分の行動が不完全だからです。不完全性からの逃避が、ニセモノです。

 

 刺激、感動、獲得、評価などを求める正体は、大いなる欠乏感です。日々の暮らしに充実感がないこと。欠乏感が刺激や快楽を求めさせます。

 

 わたしたち自身が豊かになるなら、そのとき、生はわたしたちを通して調和的に流れるでしょう。そのとき、所有や貧しさは、わたしたちにとってもはや大して重要ではなくなります。わたしたちは所有を強調するので、生の豊かさを失います。

 ところが、わたしたち自身が完全であるなら、物ごとすべてが本来的な価値を見出して、精神と心と、人生の調和を生きることができるのです。

 

 神話を元型として貫く、単一性があります。それは、内的に継続的な歴史を自覚した、1共同社会の生活運動です。この内的継続性は、影響の非常に大きな、諸々の変化を通して持ちこたえて行きます。「聖杯探求」は、12世紀には十字軍運動によって継承され、現代では新しいアイオーン(精神的な周期)を創造する運動であり、さらにはタロットをめぐる、「文化と歴史の形成」の問題です。『タロット王国』は現代における神話の創造的継承者であり、「タロット文化形成塾」として、現代の教育と文化の形成の問題に取り組んで行きたいと考えています。(完)

 

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